『黒木陽子の
住まなくても都』

住めば都、とは申しますが、
住まなくったってきっと都。

インターネットを駆使して、
47都道府県、住んだ気になりました!

【第47回 住まなくても都!完】

いや〜47都道府県の住宅事情を調べ調べてようやく終わりました。

この連載が始まったのが2009年の夏のこと。びっくり。そんなに経ってたんだ。
途中に大きな休憩(三国志とはなんだったのか連載)を挟んだとはいえ、
私、5年間も旅をしていたんですね。

林芙美子もびっくり。

まさか連載を始めたときには、こんなに「地方都市にそれぞれ色があると思うなよ!」って悪態をつきまくることに
なるとは思っていませんでした。

でもね、ふたつ気がついたことがあります。
ひとつめは、だいたい「何もねーなー」とか、「劇場が無いんだよ!」とか、
ぶぅぶぅ書きながらぶうたれていたのは、訪れたことが無いところだってこと。
逆に、一度でも訪れたところは「なんか良いところ」という印象が強いんですよね。

(岐阜なんか、今連載で住んでたらきっとべた褒めですよ。めっちゃいいところ。岐阜。)

そして「日本全国住む気になってみる!」というコンセプトに見合う文章力と構成力が私に無くて
皆様にはお伝えできませんでしたが、実はこの各都道府県を調べる作業はめっちゃ楽しかったのです。
「何もねーなー」というのはかき出すトピックスが特に無いという意味で、平凡な驚きはたくさんあったのです。
増えて行く無駄な知識。頭の中で広がる平凡な地方の日常の景色。
ぜひぜひ、やってみて下さい。


そして、ふたつめは、私の「住む」ということに対しての気持ちの変化です。
この連載期間中、2009年から2014年の間に大きな地震がありました。
のんきな「住んでみた〜」「きゃっきゃっきゃ!」企画だったはずなのに、
2011年以降どの都道府県のサイトもトップに安全情報が掲載されるようになりまして。

私も東日本に住む時には、震災のことと、原発事故のことが頭をよぎるようになりました。
そんな中、東日本のいくつかの県に住むことを考えていると・・・
やっぱり、それでもみんな住んでいるし、私も住むんだろうなあと思います。

それがこの5年で私の考えが大きく変わった所です。

私は街中そだちで
「車がないと生活できないようなところに、なんで住むわけ?」
「みんな都市に住んで、公共インフラと文化のお世話になろうよ!」
「逆にさ〜東京の人ってそんなに高い家賃払っておかしくない?」
と思ってたんです。
私にとってはそれが理性的な人間の行動だろうと思っていたのです。

でも、住むんですよね、だってそこに住んでるから。
そして同時に私が考えていた上の「理性的な人間の行動」って、つまりは今までの自分が慣れ親しんだ住環境をさも理想的な環境のように言ってただけだったなあと・・・。

理性も知性も関係なく。
住んでるってことは強い生存の証明で、正義なんだと思う。

「この町が好きだから住みます!」という自由意志で住む人もいれば、
「出てくならお前の身内も住めんようにしちゃるって言われてさ・・」という地縁に縛られて仕方なく住んでいる人もいるだろうけれども
そういう人もいるだろうけれども、そういうのはまれで、縁とか、運命とか、何となく、が多いんじゃないのかな。
そして、一度住んでしまったら、なんか離れられなくなる。いろいろつながってしまったり、単純に面倒くさかったり。
「知らない天国より知ってる地獄」という言葉を虐待の文脈で読んだことがあるのですが、虐待に限らず、生活ってそういうところがあるんじゃないかな。


「なんでそんな寒いとこに住むの?馬鹿じゃないの?引っ越しちゃいなYo!」
って今はもう言えない。だってそこに住んでいるんだもん。
大多数の人は、より快適で便利な環境に、ほいほい移動したりできないようになっているんだな、きっと。なんでか知らんけど。
(好きな時に自分にとって快適で便利な環境に、ほいほい移動できるようになる時代もくるのかもしれないけれど。今は違う。)

「そこに山があるから」登山する登山家の気持ちはあまりわからないんだけれど
「そこに住んでるから住んでる」のは理解できるようになりました。

日本全国、住まなくても都!
住んだらもっと都だ!

住むなら天国にしていこうではないか。
もしどうにも地獄なら・・・知らないところにほいほい移動していこう。
どこだって平凡な都だもん、大丈夫よ。

身軽さに対する勇気と、
そうはできない生物の性をこの連載で知ったような気になっております。

十分にお伝えできずにごめんなさい。

(完)