(12)小島聡太×中田光昭
                                                                                                 7月某日ロッテリアにて


<小島聡太プロフィール>
2003年〜2009年に劇団衛星所属。舞台監督・音響・俳優として活躍。退団後は、公益財団法人びわ湖ホール舞台技術課(現・舞台技術部)勤務、劇場管理と劇場自主制作オペラに携わる。






僕が衛星に入る前、舞台の裏方のバイトをしていたときに、びわ湖ホールで小島さんにはよくお会いしていました。

中田:ちなみに衛星に入ったきっかけというの・・?

店員:すみません、お待たせ致しました。

:あ・・。

中田:(ごそごそする。)あ・・ペンが出ない。

小島:あ、貸しましょうか?

中田:え、いいですか?すみません。

小島:消せるペンもあるので・・。



いつのまにか世間話に


中田:あ、お子さんおめでとうございます。もうそろそろですか?

小島:あ、ありがとうございます。もうすぐです。


小島さんの奥さんとは面識があります。
僕が大学に入った時、その学科の副手として働いていらっしゃいました。



中田:入学式後の学科オリエンテーションで、”後ろの二人可愛いなぁ〜”と思っていた一人が奥さんでした。

小島:おお、へぇ〜。


この後もまだ雑談が続く・・


中田:え!?そんなに時間が経ってるんですね・・。小島さんが新婚の気でいてましたね(笑)。

小島:そうですよ。もう丸2年。

中田:小島さんと最初に出会ったのは、アトリエ劇研でやった「木ノ下歌舞伎」ですよね?(※2008年『摂州合邦辻』。当時、中田は役者として出演していました。)

小島:木ノ下歌舞伎でしょう。

中田:ですよね。あの公演で、小島さんは舞監で入って下さってて。

小島:あの、新聞ばっかりのヤツでしょう?舞台に大量の新聞の束を置いたっていう。

中田:そうです・・。泣きながら新聞束にしたなぁ・・。19・・20歳か・・。(遠い目)・・あ!!本題に入らないと。


衛星に入られたのはいつですか?


小島:学生をしながら、外部の劇団の音響や舞監をしていた時代なんですよね。当時やっていたのは「表現集団ATP」、あと「ナントカ世代」の前身の「蚤の市プロデュース」に関わっていたんですよ。その時に「星衛」の音響を探していると(声がかかった)。

中田:星衛の?

小島:星衛の最終公演(※2002年『希望の島奇譚』)の音響オペを探しているという事で声がかかって、(音響スタッフを)やったんですよ。それが初めてですね。で、蓮行さんはああ言う人だから、一度一緒に仕事をして、「こいつやれる」と思ったら、また声がかかる訳ですよね。それで「コックピット手伝ってくれないか」って話になって・・。その「コックピット」が、かの、大変やったと言われる『第五長谷ビルのコックピット』と『東京駒場のコックピット』やった。(※2004年。劇団衛星の「コックピットシリーズ」3作品と様々なパフォーマーによる上演をロングランで行った『劇団衛星の文化祭典』。)


1番キツかった舞台


中田:第五長谷ビルの時は、とても大変やったと聞きますけど・・。

小島:当時は、楽しかったですよね。

中田:油まみれやったんですよね?(笑)

小島:そう。(会場に使った空きテナントは、その前が)そば屋やったのを(居抜きで借りて)1ヶ月後に本番できるようにしてくれと・・。

中田:え??ちょっと待って下さい。1ヶ月ですよね?

小島:うん・・。あ、2ヶ月ぐらいあったかな?でも小屋入りしてリハーサルしてっていうのを含めての2ヶ月やったかは覚えてないけど・・。最初下見に行ったら、そば屋のカウンターがあって、さすがにカウンターはどけようって話して。次行ったら、カウンターはなくなってたけど、配線の残骸や床ぬるぬるしてるのとかあって・・。最初の数日はそれを破壊する作業してましたね。

中田:他にはその当時、誰がいはったんですか?

小島:チャック・O・デーンさんが辞めた後やと思う。

中田:Fさんから、本当にしんどかったって聞いていてます。いるメンバーで潰して、ガレキをどかして・・。

小島:まぁ実際に、ガレキどかしたりはしてない・・?いや・・したな(笑)

中田:そして、そのときは「大塚」役として出演もしている訳ですよね。(※『劇団衛星のコックピット・コンセプト1』での役名)

小島:その時は、第五長谷ビルのそば屋の後を壊し、平台入れて劇場空間にするのと、コックピットのセット自体はあったので、それを持ち込んで組み立てるのと、セットだけやと壁や通路がなかったので、何かしらでパネル作って補填する作業をして。それと平行して、衛星の(作品の)稽古もあったし、(公演全体の舞台監督もしていたので)衛星以外の団体さんがリハーサルをする、その時間を調整したり打ち合わせしたりする という事をしてましたね。

中田:すごいですね。あと、Fさんから、『コックピット』の休演日に『珠光の庵』の学校公演をしていたと聞きましたが・・?(※植村注:ロングラン公演の期間中に学校公演の仕事があり、会場ではほかの劇団が上演する裏で、劇団衛星のメンバーはその仕事に行っていました。)

小島:まず、僕が入ったのは、『珠光の庵』の初演を創る時期で、茶道がどうたら、お寺で公演するにはどうやってやるかを日々考えていて・・。

中田:(お寺には)釘打てないですからね。

小島:色んな物を試行錯誤して、(照明の)平行のケーブルが大量に要るから作ったり、パネルや屏風がいるってことになり(それを作ったりした)。屏風もいろんなパターンがあって、劇場や会場の障子を外させてもらってそこに立てるための障子立てを作ったり。今も使われている屏風・・、あれは三代目ぐらいやと思うけど、その初代を作ったり。それで初演(※2009年夏に京都・誓願寺で『珠光の庵』初演しました。)が終わり、『コックピット』とか他の公演の合間に学校公演があった。Fさんは役者やからいいけど、(前日の)『コックピット』(上演の)終わりで、スタッフは搬入、仕込みを前日に済まし、『コックピット』休演日に『珠光の庵』上演をして、・・と、すごく平行してあれこれやっていて。2演目を2会場でやるから、こっちの本番してる裏で仕込みとかね。でも、当時のスケジュール見返してみたら、その合間に他の劇団の稽古も観に行ったりとかしていて、(我ながら)よくやっていたなと・・。

中田:すごいですね。今では考えられないですね。

小島:意外と楽しんでやっていたと思いますよ。

中田:小島さんすごいなぁ〜。僕の小島さんのイメージって、木ノ下歌舞伎の時とびわ湖ホールの小屋付きやっているイメージだったんですよね。それで・・衛星に入った時に、「小島」って書いた工具箱があって。

小島:ああー。

中田:「小島さんって?」ってFさんに聞くと、「小島聡太さんやでー」っと。「ええー、面識ありますよー!」みたいなやりとりがあって。Fさんが「置いて行ってくれたんやなぁ〜、衛星のメンバーは誰もガチ袋持ってないからな・・」と遠い目をして言っていましたね。

小島:そう、誰も持ってないからね(笑)。

中田:以前、衛星の仕事で小島さんと一緒に車に乗った時、小島さんが「え?高速使うんですか?」と言ったのを覚えています。小島さんがいた頃の劇団の経済事情とか・・大変だったんですよね? 紙本さんが銀杏拾って食べてたとかも聞いたこともあります。

小島:ははは(笑)。あったね、そんなことも。高速は使ってなかったな・・.節約で(笑)。あとね、セキト(劇団の社用車の呼称。8人乗りの乗用車で主にツアー公演等大人数の移動に使っていた)が突然走らなくなった事があった。

中田:え!?どういう事ですか?

小島:初代セキトは、赤いエステマだったのだけど。(劇団衛星の車は2台あって、)蓮行さんの家の駐車場だけでは入らないから、僕の当時住んでいた下宿が駐車料金タダやったから、僕の家に駐めていたんですよ。普段僕が運転していて、必要な時はその現場に持って行くようにしていたんやけど。そのセキトが、扱いが悪かったのか、そもそも故障していたのか、カラカラと音を立てる様になって・・。ある日突然動かなくなり・・。というか、ハンドルがクソ重くなって。

中田:油圧が漏れてるとかですかね?

小島:かな?・・で、搬入の時に家から事務所まで行く途中にハンドルが重くなって、JAF呼んだら搬入に間に合わないから、とりあえず事務所まで行ってJAFだという判断になり。走れない事ないけど全力で体重をかけないと曲がれないから、汗だくになりながら、(事務所に行った。)前後には普通に走れたんやけど。それで、造形大から高原まで行ったね。

中田:搬入前に・・。

小島:はは(笑)。

中田:ちなみに、(その車はそこで)廃車になったんですか?

小島:確かそうやったかな。


今の劇団員に一言


小島:皆さん、今、大活躍してるからねぇ。楽しそうやね。(笑)

中田:思ってます??(笑)

小島:楽しそう。(僕が)劇団に所属してる時は楽しかったし、でも当時生活がしんどかったのもあるし(笑)。今は結構平和というか、ある程度安定している。

中田:そうですね。

小島:楽しそうやなぁというのはあるね。首藤さんと(入団が)ほぼ入れ替わりやったんちゃうかな。僕が抜けてから首藤さん入ってるから・・。首藤さんが楽しくやっているならいいですね。(にやり)


とインタビューを終えようとした時に、小島さんが 思い出すとこれが一番キツかった。 と、『ISANA』(※)について話してくれました。
(※2006年に行った、電視游戲科学舘の公演。「black chamber (ブラック・チェンバー)」での最初の公演であった。主催:ロングラン公演推進実行委員会。制作協力にNPO法人フリンジシアタープロジェクトが携わり、劇団衛星メンバーも多数参加していた。)



小島:「black chamber」(大阪住之江区にあるアート複合スペース)を作ってる途中から衛星は関わり出して、そのオープニング事業で大きい舞台やろうってなって。『ISANA』っていう芝居をやろうとして、ワークインプログレスをやってクラウドファンドやってお金を集めてロングランをする、そのための試演をやって、お金集めて大きくロングランやろうっていく企画で。その立ち上げの公演があって。black chamberを作っている横で稽古もし、劇場の備品も揃ってないからどういう風にするか考え・・。いざ劇場が出来て、仕込んで稽古してからが、笑けるぐらいキツかった。毎日車で京都から通った。

中田:それは、10〜22時ですか?

小島:劇場にいる時間が10〜22時やったから、(京都からの往復に)車で片道1時間半かかるから、8時過ぎに出て、帰ったら日が変わってる、ていうのがほぼ一ヶ月続いた。一日の最初と最後を運転してるっていう。その公演が終わったあと、ちょっとしたら、今度は『文化祭』っていう、その会場を使って色んな劇団さんにいろんな公演をしてもらおうって企画があって(※植村注:フリンジシアタープロジェクト主催。『劇団衛星のコックピット』のコックピットなしバージョンのような企画でした。)。それの準備も平行してやってたと思う。多分8月に『ISANA』があって、10月が『文化祭』やったから。その間に、しれっと学校公演も入っていた。

中田:学校公演、結構やってるんでね。

小島:やってたやってた。それと環境ワークショップ(※演劇で学ぼう)の発表会とか。

中田:すごい。

小島:(スマホに向かって)あの映像あったら見たいでーす。ほんと大変やった・・、作品は面白かったけど。

奥さん(途中で合流した):未だに気になってるよ、面白過ぎて。


奥さんの赤ちゃんが無事に産まれます様に… あ、アップされる時にはもう産まれているか…おめでとうございます!!